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日本人の起源

日本人の起源
日本人の起源

祖先」は洞窟で何を思ったのか?

その洞窟は、とにかく巨大だった。体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。その先はまっ暗で何も見えない。高いところで、?ナツバメやコ?モリが舞っている。

不思議と怖さはない。むしろ、大きなゆりかごの中にいる気分だ。4万年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走り出したくなる。

マレーシ??ボルネゝ島のニ?洞窟。私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。2人の人類学者、国立科学博物館の海部陽介と沖縄県立博物館?美術館の藤田祐樹に同行してもらった。

東京から首都ク?ラルンプール、そしてボルネゝへ。2日かけてブルネ?との国境の町ミリに入った。そこから車で2時間ほど走り、ようやくニ?国立公園の入り口にたどりつく。ニ?川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木でできた階段を5分ほど上ると――。

「さあ、我らが故郷に到着だ」。洞窟の前で、案内役のサラワク博物館長、?ポ??ダタンが歌うように言った。

ここで1958年、人間の頭蓋骨(ずがいこつ)が見つかった。深さ2.5メートルの地中に眠っていたため、「デ?ープスゞル(The Deep Skull)」と名づけられた。

2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘現場の地層やデ?ープスゞルを再検証し、「約4万2000年前の20歳前後の女性」と特定した。東南?ジ?最古の現生人類(ホモ?サピ゛ンス)だったのだ。

洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館でデ?ープスゞルと対面した。ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。

館長の?ポ?が、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。茶褐色で薄く、はかなげだ。4万年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。

「思ったより華奢(きゃしゃ)ですね。骨と骨の結合部分に、まだ成人になりきっていない特徴もある」。海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。

デ?ープスゞルの発掘現場は、半世紀前のまま残されている。周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたとみられる穴の跡も見つかった。森で生きぬく知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が目に浮かぶ。

デ?ープスゞルの主は、その形態などから「ゝーストラリ?やタスマニ?の先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。

海部は研究者になった16年前からニ?洞窟に来るのが夢だったという。「日本人のルーツをたどる旅で、ニ?洞窟は避けて通れませんから」

約20万年前に?フリゞで生まれた現生人類は、中東から?ンドをへて東南?ジ?にやってきた。そこからユーラシ?大陸を北へ、さまざまなルートで日本列島を含む?ジ?各地に広がっていったと考えられている(G-2の地図参照)。デ?ープスゞルの主は?ジ?に入ってきた初期の人たち、つまり、日本人の遠い「祖先」だった可能性がある。

午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。雨に洗われる深緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。雨は一滴も入ってこない。風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。

ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。行く先々に何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。海部は言う。「その好奇心と、何とかなるという自信こそ、ホモ?サピ゛ンスの証しじゃないかな」

もし、「祖先」たちがニ?洞窟にとどまっていたら、日本を含む東?ジ?の歴史は変わっていたかもしれない。彼らが前に踏み出してくれたおかげで、いま私たち日本人はここにいる。

マレーシ?から東京に戻った私は、国立科学博物館の新宿分館を訪ねた。

6階建ての古いビル。その最上階に篠田謙一の研究室がある。ド?の前の廊下には、大きく平たいプラスチックのケースが、私の背丈よりも高く積み重ねられていた。15段はあるだろうか。中身は江戸時代の人骨だという。

篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄?石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人、富山市の小竹貝塚の縄文人、東京?谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち……。

「私たちはよく『骨を読む』と言います。骨からは、実にたくさんのことがわかる。形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学界に大きな一石を投じることもある。

たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつて「南方からやってきたほぼ均質な集団」というのが定説だった。全国で出土した骨をもとに縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。

ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授の安達登らは、北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリ?DNAを分析。その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人データと比べてみた。

北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。このグループは、サハリンなど現在の極東ロシ?の先住民に目立つ。2番目と3番目に多いグループも、ゞムチャツゞ半島などの先住民に多い。東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。

対照的に関東の縄文人のミトコンドリ?DNAを見ると、東南?ジ?の島々や中央?ジ?、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。「北海道?東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた──。浮かび上がるのは、そんなストーリーだ。縄文時代、さまざまな人々が、いろいろなルートで日本列島に入ってきていたらしい。

?フリゞから東南?ジ?、そして日本列島へ。日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡がしだいに明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこからきた何者なのか。それを知ることで、自分たちがどこへ向かおうとしているかを確かめたい」

取材班のDNAを解析。多彩な「祖先の記憶」

DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が明らかになりつつある──。そう聞いて、ふと思った。私(後藤)のDNAには、どんなルーツが刻まれているのだろう?

さっそく、取材班の3人(琴寄辰男、村山知博、豊間根功智)とともにDNAを調べることにした。

樹脂製の細い棒を口に入れ、ほおの内側を何回かこする。棒の先端の小さなブラシに、透き通った粘膜組織がからみつく。しっかり封をして、国立科学博物館の新宿分館に持ち込んだ。

篠田謙一は4人分の「棒」を受け取ると、それぞれのブラシの先端を透明な液体に入れてかき回した。そこにさまざまな試薬を加えると、やがて白っぽい物体が現れた。さらにかき混ぜたり温めたりを繰り返した後、篠田は1日がかりでミトコンドリ?DNA(メモ2 参照)を解析したという。

数日後、「これがあなたの解析結果ですよ」と篠田が差し出した紙には4種類の?ルフ?ベット(A、T、G、C)が横一列にずらっと並んでいた。

ミトコンドリ?DNAをつくっている4種類の塩基だ。並び方には微妙な個人差があって、その特徴をもとに数十種類のグループにわけることができる。種類は多いが、血液型のようなものだ。

「ほら、16257番目の塩基がA、16259番目がTでしょ。だから、後藤さんは『N9a』というグループなんです」

「N9a」は、中東からヒマラヤの北を通って東?ジ?に広がったとみられるグループだという。日本人では4.6%と多くはない。中国南部や台湾の先住民に多く、「こうした地域で緩やかに広がり、やがて日本に入ってきたのだろう」と篠田は言う。

琴寄と担当デスクの村山は、日本人の最大派閥「D4」だ。他グループが日本人の1%未満~10%程度なのに対し、「D4」は3割強を占める。

中央?ジ?から東?ジ?まで広く分布し、朝鮮半島や中国東北部でも3~4割。琴寄がクロ?チ?で専門家に取材した際、自らが「D4」だと告げると、「それは中国系だね」と即答された。それほど東?ジ?では大きなグループだ。

「D4」は、3万5000年以上前、東南?ジ?をへて東?ジ?にやってきた人々の中で生まれたらしい。マレーシ?のニ?洞窟にいた人々は、このグループの祖先なのだろうか。

おもしろいことに、色白で北方系の琴寄と、南方系でソース顔の村山はあまり似ていない。顔や体形は、さまざまな遺伝子が複雑に絡み合って決まる。ミトコンドリ?DNAの型は、姿形とは直接的には関係がないのだ。

ゞメラマンの豊間根は「B4a」というグループだった。日本人では 1.6%しかいないが、東南?ジ?から南太平洋に広く分布している。沖縄の遺跡の古い人骨でも確認され、「多くは南から島づたいに日本列島まで北上してきたのでは」と篠田はみている。

なるほど、大柄な豊間根のルーツは海洋民族か。年中、?ロハシャツを着ていることとは関係ないだろうけど。

たった4人のミトコンドリ?DNAにも多様な「祖先の記憶」が刻まれていることに驚かされた。一口に日本人といっても、さまざまなルーツを背負っていることがわかる。

最近、より多くの情報をもつ細胞核のDNA配列を手がかりに、日本人のルーツを探る研究も進んでいる。

理化学研究所のチームは7000人を超える日本人を対象に、1人につき14万ゞ所のDNA配列の微妙な個人差(SNP=スニップ)を調べた。近畿以西の人は中国北部の人に似ている傾向があったが、関東や東北など東や北にいくほど中国の人たちとは遠くなっていた。

理研の山口由美は「(もともと日本列島にいた人々と)大陸からきた渡来人がどれくらい混血したのか。その違いを物語っているのではないか」とみる。

?ジ??太平洋で同じような調査の試みもある。

調べたのはヒトゲノム国際機構(HUGO)の?ジ?共同研究グループだ。?ジ?10ゞ国?地域の90人以上の科学者が参加し、73集団、1928人について1人につき約6万ゞ所のSNPを分析した。

その結果、?フリゞから?ンド、東南?ジ?にいたる現生人類の足どりが見えてきつつある。日本人の遠い「祖先」は東?ジ?や?ジ?北部に移動したり、南の島々に渡ったりしたらしい。

では、日本列島にはどのようなルートで入ってきたのか?

「現代の日本人の多くは、何万年も前に東南?ジ?にきた人たちの遺伝子を引き継いでいる。主なルーツは東南?ジ?と推定できる」。プロジ?クトに参加した東京大教授の徳永勝士は、そう説明する。

「ただ、東?ジ?にしかないタ?プも見られ、北や西からきた人々がいたことも否定できない」

プロジ?クトに参加した各国の研究者は、いまも調査を続けている。

「祖先」の足取りがさらに詳しく見えるようになるかもしれない。

[Part2] ネ?ンデルタール人と現生人類の関係に迫

分子遺伝学の進歩によって、人類全体(メモ1 参照)の起源をめぐる謎も解き明かされつつある。欧州で、ネ?ンデルタール人の最新研究を追った。

ゝゞリナに似た、どこかもの悲しい音色に、人類学者ら約150人が耳をすました。クマの大腿(だいたい)骨でできた「ネ?ンデルタール人のフルート」。

2月27日、クロ?チ?北部のクラピナにあるネ?ンデルタール人博物館の開館1周年式典で、私(琴寄)も演奏を聴いた。

「フルート」は隣国スロベニ?の遺跡から見つかった。長さ10センチほど。約4万5000年前のもので、世界最古の楽器とされる。「フルート」の穴は動物がかんだ跡にすぎず楽器ではない、との異論も学界にはあるが、地元の人々は信じて疑わない。

この日、レプリゞで演奏した音楽家、リューベン?デ?ムゞロスキーも「3ゝクターブの音域があり、どんな曲でも演奏できる。楽器としか考えられない」。

式典に出席していたクロ?チ?自然史博物館のヤコブ?ラドヴチッチ(地質学?古生物学部門の責任者)は、ネ?ンデルタール人が高い知性と文化をもっていた証拠とみる。

「我々はネ?ンデルタール人の遺伝子を引き継いでいたんだ。ネ?ンデルタール人には音楽をつくれないという従来の考えは改めるべきだ」

ネ?ンデルタール人の遺伝子が我々に引き継がれている──。

昨年5月、独マックスプランク進化人類学研究所の論文が世界中を驚かせた。

ネ?ンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)を解析し、世界各地の現代人5人と比べたところ、?フリゞ以外の現代人のゲノムの1~4%がネ?ンデルタール人からきたものと推測されるというのだ。

ネ?ンデルタール人と現生人類(ホモ?サピ゛ンス)は交雑しなかった、という従来の有力な説を覆す発表だった。

解析に使われたのは、約4万年前のネ?ンデルタール人の女性3人の骨。クロ?チ?北部にあるヴ?ンデ??洞窟で見つかったものだ。

「フルート」の演奏を聴いた翌日、ヴ?ンデ??洞窟を訪れた。

スロベニ?国境に近いドーニャ?ヴ゜ーチャ地区。小雪の舞う中、雑木林の丘に上がると、「SPILJA VINDIJA(ヴ?ンデ??洞窟)」と書かれた粗末な門が見えた。

凍った小川に沿って渓谷をさらに上がっていくと、幅20メートルほどの入り口があった。奥行き約50メートル。奥から入り口にゞメラを向けると、落ちてきた水滴で背中がぬれた。

天井を見上げると、ところどころにつららがある。時折、「パリン」という音が洞窟内の静寂を破る。つららが落ちる音のようだ。

雨や寒さをしのぐには絶好で、小川からも近い。「ネ?ンデルタール人が住んでいたのは確かだが、頻繁に移動していたようだ」。この遺跡の研究を続けるクロ?チ?の人類学研究所の?ヴ゜ル?ヤンコヴ?ッチは、そう説明する。

クロ?チ?科学芸術?ゞデミーの研究所で、ヴ?ンデ??洞窟から出たネ?ンデ

ルタール人の骨を見せてもらった。「ほら、どうぞ。さわってみて」

手を出すのをちゅうちょする私に、同研究所のヤド?ランゞ?マ?フレナルデ?ッチが骨を差し出した。

レプリゞではない。約4万年前の地層から出た本物の下あごの骨だ。がっちりとした大きな歯が4本残っている。手に取ると、表面はつるりとしていた。

木製の箱に骨や歯が60個ほど、きれいに並べられていた。1ゞ所だけ空のところがある。

「ああ、ここは、ペーボが持っていったのよ」

スヴ?ンテ?ペーボ。独マックスプランク進化人類学研究所でネ?ンデルタール人のゲノム解析を主導した人物だ。1980年代に゛ジプトのミ?ラからDNAを取り出した後、古人骨などの遺伝子解析に次々に挑んでいる。

ゲノム解析の共同研究者のパーヴ?ゝ?ルーダン(クロ?チ?科学芸術?ゞデミー事務局長)は「彼こそ古遺伝学の生みの親。ノーベル賞をきっととる」という。

貴重な骨にドリル。賭けの結果は…

ペーボに会うため、ド?ツ?ラ?プチヒを訪れた。国立図書館に向かい合う近代的な建物が、マックスプランク進化人類学研究所だ。

ペーボの研究室には、ネ?ンデルタール人の骨格のレプリゞが飾られていた。丸テーブルにはノートパソコン。書類が散乱している。

「ノーベル賞は確実」というクロ?チ?の研究者らの見方を伝えると、「それはないでしょう。進化研究のノーベル賞ってないからね」と笑った。

だが、分子遺伝学の成果には誇りを持っている。「現生人類とネ?ンデルタール人は交わったのか?20年前から議論になっているが、その答えは骨を見つめていても分からない。分子遺伝学のおかげでようやく答えが出た」

「人類の起源を探る」というと、骨の形を分析する形態人類学や、石器や土器を調べる考古学が頭に浮かぶ。ただ、近年、形態人類学や考古学の常識が、分子遺伝学によって覆されている。

たとえば、現生人類の進化について長らく主流だった「多地域進化説」。

北京原人が東?ジ?人に、ジャワ原人がゝーストラリ?先住民に──というように世界各地で、それぞれ原人が、旧人、そして現生人類へと進化していったとする学説だ。

87年、米国の研究者らが現代人147人のミトコンドリ?DNAを解析し、現生人類は約20万年前に?フリゞで生まれ、その後、世界各地に広がっていったと結論づけた。?フリゞ以外の原人は現生人類の直接の祖先ではなかったのだ。現在の定説「?フリゞ起源説」である。

10年後、ペーボらは、ド?ツのネ?ンデル渓谷で見つかったネ?ンデルタール人の骨のミトコンドリ?DNAを解析し、ネ?ンデルタール人も現生人類の祖先ではないことを明らかにした。

直接の関係がないネ?ンデルタール人と現生人類だからこそ、一部に交雑があったという昨年5月の発表は意外だった。

ペーボは「二つの種は明らかに同時に存在していたのだから、交雑があったという結果は受け入れやすい」と話す。

DNAを取り出すには貴重なネ?ンデルタール人の骨を壊さないといけない。「歯医者のドリルで骨に小さな穴を掘る。ス?スチーズのように穴だらけになることもあるね」

成果が出なければ批判を受ける。勝算はあったのかペーボに尋ねると、「賭けは賭けだけど、それだけではない」。

DNAを取り出せそうな骨を見つけることと、ネ?ンデルタール人のDNAを汚さないことがポ?ントだという。

「いい骨」はヴ?ンデ??洞窟で手に入った。これを半導体工場なみのクリーンルームに持ち込みDNAを採取。特殊な目印をつけ、分析者のDNAが誤って混入しても見分けられるようにした。

ただ、「いい骨」でも、もともとあったDNAの1~3%しか残っていなかった。解析の大半は、コンピュータープログラムによる全体図の復元作業だった。このプログラムもペーボのチームが開発したものだ。

解析がうまくいったのは、「こうした手法すべてのコンビネーションのおかげだ」とペーボは言う。

絶滅してしまったネ?ンデルタール人と比べ、現生人類の何が優れていたから生き残ったのか──。

それを探るのが今後5~10年の課題だという。

「自分の起源を知りたいというのは、とても人間的な疑問だ。だからこそ、世間はここまで我々の仕事に興味を持ってくれるのだろう」

渡来人と縄文人の末裔、「共存」して弥生時代へ

頭を東、足を西に横たえられた無数の人骨は、頭を少し上げ、大陸に続く海を見るかのように葬られていた。

山口県下関市。響灘ぞいの丘陵地にある弥生時代の土井ケ浜遺跡は、中国大陸や朝鮮半島からきた渡来系弥生人の骨が300体以上も出た埋葬地跡だ。発掘現場はドームで覆われ、レプリゞの人骨で出土当時の状態が再現されている。

「中国大陸の戦国時代、戦乱を避けて逃げのびてきた人々だったのでは」。土井ケ浜遺跡?人類学ミュージ?ム館長の松下孝幸は、そうみている。

土井ケ浜の人骨は背が高く、顔は面長で鼻が低く、のっぺりしていた。小柄で、顔の幅は広く、みけんの下がくぼんでいる縄文人とは明らかに違う。大陸からきた弥生人が縄文時代からいた人々と混血し、いまの日本人を形づくったとする説を裏付ける有力な根拠となった。

ただ、松下は1982年の調査で、奇妙な頭骸骨(ずがいこつ)を取り上げた時のことをいまも覚えている。

「えっ、こんなのが出ていいのか」と声を上げた。

300を超える骨の中で1体だけ、縄文人そっくりの顔のつくりをしていたからだ。「701号」と名付けられたその人骨は、渡来系弥生人の人骨と寄り添うように埋葬されており、松下は「共同体の一員とみなされていたようだ」と話す。

長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。

松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホ?ラが使われていた点だ。この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホ?ラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。

一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。

九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。

中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。

国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。

父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東?ジ?では少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。

もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNA は極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。

縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。

正体見えない旧石器人。沖縄?石垣に手がかり

弥生時代には、縄文時代から日本列島にいた人々と大陸からきた渡来系弥生人が融合した。その前の縄文時代までに、本編01で述べた通り、いろいろなルートで人の流入があったようだ。

では、縄文時代の前の旧石器時代の人々はどこからやってきたのか?

少なくとも約4万年前の日本列島に人間がいたことは、遺跡の発掘などでわかっているが、その正体ははっきりしていない。旧石器時代の人骨が本土ではほとんど出ないからだ。土壌が火山灰のため酸性で、長い年月で骨が溶けてしまうという。

ただ、同じ旧石器時代でも、沖縄ではこれまでに10ゞ所ほどで人間の骨が出ている。本土と違って?ルゞリ性の石灰岩の土壌が広がっているため、長い年月がたっても骨が残っているのだ。

旧石器人の謎めいた素顔に迫る人骨。最新の骨が見つかった石垣島に飛んだ。

那覇空港から南西に1時間ほど。゛メラルド色の海に浮かぶ石垣島を上空から見ると、2013年の開港をめざす新石垣空港の造成地が見えた。

08年、その一角にある白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴で旧石器時代の人骨が出た。

約2万年前のもので、骨そのものを年代測定したものでは国内最古だ。昨年は頭蓋骨が見つかり、どんな顔をしていたのか、その復元が注目されている。

実は、沖縄の旧石器人の顔つきは、本土の縄文人がやってきたルートの研究にもつながっている。

1970年に沖縄本島で4体の旧石器人「港川人」が出た。そのうち1号(推定約2万年前)は顔が復元された。東京大教授だった鈴木尚(故人)は「縄文人と似ているから、港川人と同じような人々が本土に渡って縄文人になった」と推測。「縄文人は南方からきた」という有力な説の礎となった。

ところが、発掘から40年、この学説が揺らいでいる。

国立科学博物館の海部陽介や沖縄県立博物館?美術館の藤田祐樹らが最近、「1号」の下?ゴの骨をCTスキャンなどで細かく調べ直した。

その結果、?ゴの接合部でズレが見つかり、これを修正すると顔の幅が従来より細くなった。他にも縄文人との違いがあり、縄文人よりゝーストラリ?先住民などに似ていることがわかった。

縄文人のなりたちについて、港川人のような旧石器人が南からやってきたと考えられていたのは、「1号」の顔が縄文人に似ているという大前提があったからだ。その大前提を揺るがす研究といえる。

札幌医大准教授の松村博文は「縄文時代の頭蓋骨には、東南?ジ?系と北東?ジ?系の中間的特徴がある。旧石器時代の終わりから、北方からの人の流入も始まっていたのではないか」と言う。縄文人の祖先が南方だけからやってきたわけではない、という考え方だ。

「もし石垣島の頭蓋骨の持ち主が、港川人1号と同様にゝーストラリ?先住民などに似た顔つきだったら、沖縄には縄文人と似ていない人々の集団がいた可能性が高まる。南からきた人々の北限だったのかもしれず、沖縄の旧石器人が本土に渡って縄文人になったという従来の説を見直す必要性が増す」。

沖縄県立博物館?美術館の藤田は、そう話す。

新たに出た石垣島の人骨の顔つきが見えてくれば、本土の旧石器人や縄文人のなりたちを探るヒントになるかもしれない。

[Part3] さまざまな石器が語る日本人の多様性

旧石器時代の骨がほとんど出ていない本土でも、石器は各地で見つかっている。日本旧石器学会長の小野昭は「多彩な遺跡から、当時の人たちの暮らしぶりを探ることができる」と話す。

もちろん骨がないと、そういう人々の顔や体の特徴はわからない。だが、石器や遺跡をもとに、考古学者たちは、私たち日本人の「祖先」がさまざまなルートで日本列島にやってきたことを解き明かしてきた。

ごく初期の石器文化は、南方からもたらされたとする見方がある。

日本最古の石器として、石を割ってつくる剥片(はくへん)石器、丸石にわずかな加工を施した礫器(れっき)がある。

「これらは東南?ジ?の旧石器群と似ている」と、国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾は言う。日本列島と東南?ジ?が完全に陸続きになったことはない。春成は「最古の人々は南方から舟に乗ってやってきたのでは」とみる。

約3万5000~1万9000年前には、ナ?フ状に加工された石器が各地に現れ、さらに約1万8000~1万4000年前になると、ゞミソリの替え刃のような細石刃という石器が広がった。ロシ?のバ?ゞル湖周辺に起源があるとされ、サハリンから北海道をへて日本列島に入ってきたという。少し遅れて九州?西日本には朝鮮半島経由でも入っている。

シベリ?考古学に詳しい札幌大元教授の木村英明は「旧石器時代に沿海州やシベリ?との間に人の行き来があったのは確実だ」と話す。

旧石器時代の遺跡は、全国で1万ゞ所を超えている。旧石器人たちが、やがて縄文人になったのか?

小野は言う。「これだけの遺跡があるのだから、旧石器人が絶滅したことは考えにくい。彼らの子孫が縄文人になった可能性は十分ある」

ただ、縄文というまったく新しい文化が始まるには、そのきっかけとなるような新たな人の動きがあったと考えるのが自然だ。

小野は「祖先たちは何回かにわけて、さまざまなルートで列島に渡ってきたのではないか」と話している。

[Part4] 日本人とは?クラ?ナー教授に聞く4つの疑問

「日本人の起源」は、日本人にとってどんな意味をもっているのか?

民族学者の岡正雄に師事したヨーゼフ?クラ?ナー法政大特別教授にきいた。(聞き手後藤絵里)

1 日本人は「ルーツ探訪」が好き?

一般の国民の多くが、自分たちの起源にこれほど関心をもっている国は珍しい。考古学や人類学の発掘記事が新聞に大きく載ることは、欧州ではあまりありません。有史以前にどんな人たちがどのように日本列島にやってきたのか、はっきりしていないからでしょう。

日本人が「自分たちは何者なのか」を深く考えるようになったのは、明治以降です。

日清?日露戦争に勝って列強の仲間入りをすると、「日本はどんな国?」と欧米が注目し始め、海外に説明する必要が出てきた。そんな時代、新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」などが英語で書かれました。

??デンテ?テ?ーが揺らぐとルーツ探しが盛んになりがちです。バブル崩壊後、日本人が自信を失うのに合わせるかのように起源への関心が高まりました。最近、中国や韓国が日本に追いつき、追い越そうとしています。「自分たち日本人にどんな可能性があるか?」。

答えを見いだそうと、再び起源論への関心が高まるのではないでしょうか。

2 日本人は農耕民族だから平和的?

「日本人は農耕民族だ」と、ひとくくりにすることはできません。稲作を営む集団主義的な要素は確かにありますが、猟師のような山の民による個人主義的な社会もあったほか、強いリーダーが率いる騎馬民族系の社会もあった。??ヌという独自の文化もある。

日本にはさまざまな社会があり、それぞれが日本人のなりたちに影響を与えています。柳田国男は、宮崎県椎葉村の小さな集落に江戸時代、火縄銃が何百丁もあったと知って驚きました。農民が狩猟に使っていたものです。また、肉食が禁じられた平安時代以降も肉を食べる人は多かった。

薩摩藩の江戸幕府への要望書には、例外的に肉食を認める人として武士や病人、力仕事をする人などが列挙されていて、結果的にほとんどの人が肉を食べるのを認めてほしいという内容でした。

「農耕する人は平和的」「狩猟する人は好戦的」という単純な図式も正しいとは限りません。歴史的に見て、人々が農耕を始めて定住し、人口が増えると土地をめぐる争いが起きます。狩猟や採集をしていた時代は人間の数が少なく、1人当たりの資源は多かったので意外に平和だったのかもしれません。

3 日本人は国際舞台に弱い?

日本に多様な社会があったように、日本人にもさまざまな人がいます。夏目漱石はやや引っ込み思案だったとも言われますが、森鴎外はド?ツの新聞紙上でド?ツ語で論争を仕掛けるほど積極的だったそうです。

また、新渡戸稲造の自伝には、ド?ツのボン大に留学中の逸話が紹介されています。道の向こうから歩いてきた女性を米国の下宿先のお嬢さんと錯覚し、彼女への自分の気持ちに気づき、その夜、プロポーズの手紙を書いたらしい。情熱的な人物だったようです。明治時代にも、ものおじしない日本人はいたのです。

4 震災に直面した日本人は?

日本人の冷静さ、団結して前に向かっていこうとする姿勢は、「武士道」「大和魂」といった精神論よりも、教育のなせるわざだと思います。

自然の厳しさを経験から学び、物心両面の準備をしていたからこそ、今回のような非常事態でも国民全体がパニックにならなかった。避難所で自主的に世話役を決めるなど、あの厳しい状況の中で秩序を保つ行為は素晴らしい。

すべて自分たちだけで解決しようとするのも、とても日本人的です。今回のような非常事態では、最初から世界に向けて大変さを訴え、海外からの応援を積極的に受け入れるべきでした。日本人は?ピールが下手なところがあり、それがマ?ナスに働いた面もあります。

ヨーゼフ?クラ?ナー氏

1940年、ゝーストリ????ーン生まれ。

??ーン大を卒業後、東京大東洋文化研究所で学ぶ。71年から??ーン大教授?日本学研究所長。77年から独ボン大教授を長く務める。現在はボン大名誉教授、法政大学特別教授。専攻は民族学?文化人類学。日本の民族学の学説の歴史や、欧州の博物館が保管する日本の仏教美術コレクションを研究している。

我眼中的日本影视文化

我眼中的日本影视文化 谈到文化,很多人认为中国文化上下五千年博大精深源远流长,日本又是在很早的时侯传入了中国的文化思想,日本文化中可能没有自己的特色。但是,我认为虽然日本吸收了中国的文化,却是与中国文化相区别的。西方思想的传入同样也大大影响了日本民族。他们在保留了自己的民族文化特色的同时也通过吸收东方文化和西方文化丰富了自己的文化。 首先,从地理角度讲,中日两国是一衣带水的邻邦,有着悠久的传统友好的历史,中日两国是搬不开的邻居。这些中日很多电影中都有提到。同样,日本影视文化中也不乏这样的因素。凭借如此优越的地理优势,不断发展了两国的经济、文化等多方面的交流。日本的国家电视台NHK就与中央电视台合拍了《话说长江》、《敦煌》、《丝绸之路》、《茶马古道》与《布达拉宫》的多部纪录片。NHK 的节目内容十分重视国内和世界范围内的文化纪录片的制作而且制作水平是很高的。经济和文化的合作推动了整个中日关系的改善。 然后,从历史角度来说,中日交流在汉朝开始。公元1世纪时在班固所著的书《汉书》中在《地理志》中提到“乐浪海中有矮人,分为百余国”,即指生活在日本南部的九州岛上的居民。为了加速吸收中国文化,圣德太子(574年至622年)于公元7世纪也就是隋王朝时期开始向中国派遣使节及留学生、学问僧等,从此两国使节往来络绎不绝,两国间的友好关系进入了一个新的时期。日本影视发展于1896年,迄今为止已有110多年的历史。因为日本也有一段群雄割据的战国时代,所以日本影视中以三国为题材的影视有很多。由于佛教的传入日本影视中以西游记为题材的电影也是不在少数。这些和佛教与神幻有关。在日本可以随处见到与中国风格类似的建筑物和风俗习惯。总的来说,日本受中国影响很深,方方面面都有中国文化的印记。 其次,日本影视中非常注重人性的描写。在日常生活中,我们不能看出的东西在日本人眼中却能将人性的善恶美丑描写地那么淋漓尽致。他们总是能将人性的描写刻画地入木三分。比如说《杀手啊一》、《情书》与《关于莉莉周的一切》。 关于日本影视中人们的忧患意识是由于日本地质条件复杂,多火山和地震。日本远远无法和中国相比较,所以日本民族骨子里就有一种忧患意识。可能一次小小的地震、火山喷发就足以灭绝一个或者几个村落。这肯定会让日本民族产生忧患意识,所以影视中不乏这样的精神。 樱花是日本的国花,在日本文化中应该具有很高的地位。樱花很美,但是樱花往往是凋零的一瞬间才能将美展现到极致。这就在某些方面表明了日本人对美的观点。一方面,日本影视文化崇尚美,但是另一方面,日本影视文化又非常喜欢灭绝美。日本影视文化的双重性格使无数的叹息,血液,死亡成为电影中的主要内容。这让日本的电影生长出一种病态的美,充满了忧郁与凄厉。但是日本的动漫却是童真与善良。 借助日本的影视文化,我们可以回过头来反思一下中国的文化。中国可以说是东方文化的发源地,日本文化就是从中国文化中传承的。但是,目前中国文化不只是在物质方面没有良好地保留下来,特别是精神方面更是严重缺失…… 一方水土养育一方人,日本影视文化保留着自己特色文化的同时成功地借鉴了西方的发展经验。同样对于中国来说,既应该发展自己民族的特色为文化,又应该吸收西方成功的发展经验,而不是全盘西化。中国应走出有中国特色的社会主义文化之路! 2012年8月4日 日语班张乐乐

亚洲古地理与中华民族发祥(二)

亚洲古地理与中华民族发祥(二) ——兼论中华先民在太平洋地区的迁徙及其世界意义 当时的日本列岛从北海道到九州四个岛一一相连,濑户内海在当时也是陆地。现在的津轻海峡,当时有宽为7~9千米 的从海底浮上海面的大陆架,连接着渡岛半岛和津轻半岛。北海道的北段也与西伯利亚相接,整个日本列岛在当时是一片一直延伸到九州的鹿儿岛和西南诸岛的弧形陆地[101]。 在日本长野县野尻湖的立鼻遗址出土了距今30 000年的人 类狩猎古菱齿象的遗址。这些遗址全部分布于洪积台地或内部。虽然可能当时也有一部分部落沿海岸线生活,以采集鱼或贝类为生,但很可能海岸附近的遗址在海平面上升过程中被淹没了。爱知县知多半岛的先刈遗址距今9000年,位于 水下十几米处,在遗址中发现了当时人们所采集的鱼和贝类。[102] 据钱方、凌小惠教授的研究,早更新世末期,中 国东部海域处于退潮期,古海岸线位于现代海底水深120~160米。中更新世最大海退发生在距今54万~52万年和18万~14万年两个时期,古海岸线位于今外陆架,水深150~200米处。晚更新世最大的一次海退时期约为距今18 000年,海岸线位于外陆架,水深约为100~160米[103]。钱方、凌小惠教授认为:“中日史前文化的交流即开始于更新 世。”[104]大约10 000年前,冰河期后天气大幅转暖,海平

面上升。日本岛与亚洲大陆为水所分离。田家康教授认为:日本在距今10 000年到5000年之间海面水位(海平面-笔者注)也上升了35米,造成对马海峡完全被淹没,开始有暖流流入日本海。在日本,这一海面水位上升的过程被称为绳文海进。[105] 关于日本港川人的起源,吴新智认为:港川人和中国南方的柳江人之间的亲缘关系要比中国北方 山顶洞人接近,因此推测港川人更可能来源于中国南方而不是中国北方或东南亚地区。或者还有一种可能性就是港川人和柳江人在并不久远的过去有着共同的祖先[106]。“自长谷部言[107]以来,日本学术界普遍认为日本最早的居民可能来自亚洲大陆,特别是华南地区”[108]。中国学者王令红在研究38个颅骨13项测量数据的平均平方距离聚类图时发现,日本旧石器时代的港川人、绳文时代的现代人跟大约同期的华南居民有最接近的亲缘关系,而且总的来说,港川人类似于柳江人。至于港川人与柳江人之间的形态差异,王令红认为,这“可能表明港川人迁入日本本土的时间要比柳江人生存时间更早些”[109]。吉林自然博物馆的汤卓炜教授通过ABO血型基因频率的异同,将日本人与中国人的亲缘关系研究范围进一步扩大到朝鲜人,结果如下表所示:中国人、朝鲜人、日本ABO血型基因频率表[110] 先看朝鲜人与中国人的亲缘关系:在O血型和B血型的基因频率上,中国华北人和朝鲜人相差很小;中国云南人和朝鲜人在B血

少年中国说4

《少年中国说》教学设计 河北孙秀立 一.教学目标 知识与能力: 1 结合具体的语言环境,理解词语和句子的含义和作用。积累重点实词。 2理解文章的主旨。 过程与方法:反复诵读理解作者炽热的思想感情;体会句式整齐,气势磅礴的语言特点。 情感与价值观:感受强烈的爱国情怀,激发学生为了祖国繁荣富强而积极进取的精神。教学重点:理解文章内容和作者炽热的感情。 教学难点:历史地分析梁启超的狭隘民族主义和大国沙文主义 二.教学设想 1 为了帮助学生理解本文内容,可以重温一下1840年之后中国遭受列强凌辱的历史和进步知识分子探求救国图强道路的过程。 2本文的语言特点是通顺畅达,气势淋漓,并且多有恰当的比喻,这些语言特点要在诵读的过程中引导学生掌握。 三教具准备:音频朗读图片 四课时安排:二课时 五教学过程: 第一课时 ㈠导入新课: 听歌曲《我们是五月的花海》听后思考:你有什么感受?(学生讨论交流) 少年是祖国的未来,是祖国的希望。“我们是初升的太阳,用生命点燃未来.”有个人在100年前,20世纪钟声敲响之际,就提出了这样的观点。“今日之责任,不在他人,而全在我少年。少年智则国智,少年富则国富,少年强则国强,少年独立则国独立,少年自由则国自由,少年进步则国进步,少年胜于欧洲,则国胜于欧洲,少年雄于地球,则国雄于地球。”他就是梁启超。今天我们就学习他的《少年中国说》。 ㈡知人论世:看视频《戊戌变法》走近梁启超 提到梁启超,人们自然而然就会想到“百日维新,戊戌变法”。 1895年,中日甲午战败,清政府被迫与日本签订了丧权辱国的《马关条约》。空前严重的民族危机,也刺激爱国知识分子干预国事,要求维新变法,拯救国家。梁启超与其师康有为是变法运动的领导人物,时人称“康梁”,建议支持光绪皇帝实行新政。由于维新派的政治制度的改革触犯了封建官僚的利益,而且威胁到慈禧太后的权威,因此,慈禧太后发动政变,将光绪皇帝囚禁于中南海的瀛台,大肆搜捕和屠杀维新派。谭嗣同等6人被杀于北京菜市口,史称“戊戌六君子”。康有为逃往香港,梁启超也由天津东渡逃亡日本。 梁启超,号任公,又号'饮冰室主人',取的是庄子内热饮冰之意,只是数十年的'饮冰',也未能凉了他的热血。康梁等爱国知识分子怎么会产生变法思想呢?105年后的今天,我们来拜读他写的一篇《少年中国说》,字里行间,我们或许会明白他的满腔热血,明白他热切盼望祖国繁荣富强的爱国情怀,明白他为何把国家的命运系于少年一身的强烈情感。 ㈢疏通文意 1.朗读课文:(对课文的感知,以朗读为切入点,又以朗读为重点。)朗读的设计如下: 一读:播放配乐朗诵《少年中国说》,学生听读,意在听准字音;

我眼中的日本

我眼中的日本 相信很多人和我一样,是从小学的课本上第一次接触到日本这个国家的。对日本文化的最初印象来自于九一八事变,八年的抗日战争,很多人一开始对日本都是抱有偏见的吧。我们无法去改变历史,也无法只从一个国家,一个民族的历史里看它的未来。 其实在理解日本之后,很多观念会变得很不一样,即使最初是带着偏见看这个国度的。日本文化中有很多吸引人的地方,也有很多值得我们借鉴很学习的地方。 印象最深的是日本的移植能力。与很多国家不同,日本在学习借鉴别国制度文化时,是完全的移植,虽然在以后的发展中,会有些许改变,但是这种移植在日本的文化中根深蒂固。 我们可以从日本的历史中看到这一点,大和民族统一日本后,不仅吸取中国先进的生产技术,而且开始吸取中国的政治制度,特别在推古朝改革进程中,以圣德太子为首的改革派精心研究中国经典,博采从中国和朝鲜传入的各种先进思想和文化,尤其是圣德太子制定的十七条宪法更是兼取中国法、儒、墨及佛家等思想,结合日本具体情况制定的。在大化革新中,孝德天皇则仿照唐代官制,全面进行政治体制改革,从而把日本社会推进到法制完备的中央集权的封建制国家。可以说,日本进入封建社会完全得益于中国的制度。 日本在进入资本主义社会的进程中,则得益于对西方国家制度的移植。日本这种彻底移植的能力让它迅速地成为世界强国。另一方面,日本之所以完全移植成功,在于它对旧文化的摒弃。说实话,移植觉得日本文化中存在着一种狠劲,无论对自己,还是对他人。就像我们经常说的,狠狠心,就什么都有了。日本的武士,就是一个典型的例子。 日本另一个吸引我的地方在于,它的饮食文化。日本菜肴虽不讲究吃出什么滋味,但很注重“形”,所以说日本菜肴是用眼睛吃的。吃日本料理,先不说它的味道,只是看,就能让人觉得满足。中国有个成语说“秀色可餐”,形容女子,这里用来形容日本的饮食也不为过,恰到好处。日本饮食中,生鲜海味占了大部分。这应该和日本海岸线绵长有很大关系,地理环境造就的日本饮食是世界不可多得的文化。日本饮食基本以清淡新鲜为主,这很适合养生人士。不过,最好吃最好看的日本料理仍然是最爱。 很多文化虽然是从中国传入日本的,但是经过这些年的发展,似乎比中国更为丰富多彩。以“茶道”为例,茶道是以沏茶、品茶为手段,用以联络感情且富有艺术性,礼节性的一种独特活动。现在茶道文化已经成为日本文化的结晶,日本文化的代表,又是日本人生活的规范,日本人心灵的寄托。茶道的内容是丰富的,它几乎将东方文化的所有内容都囊括在一个小小的茶室里。在思想方面,它含有神仙思想、道教、阴阳道、儒教、神道等;在形式方面它包括建筑、书画、雕刻、礼仪、插花、漆器、陶器、竹器、烹饪、缝纫等内容。茶道被称为是应用化了的哲学,艺术化了的生活。因此,我们才得以通过茶道来一窥日本饮食文化的深刻内涵。实际上日本茶文化的历史是随着中国茶文化的历史发展而发展起来的,它大体可分为三个时期:首先是受中国唐朝的饼茶煮饮法影响的平安时代,其次是受宋朝末期的茶冲饮法影响的镰仓、室町、安土桃山时代,最后则是受明朝的叶茶泡饮法的江户时代。其中第二个时期是茶道史上最重要的时期,但茶道的成熟期则在第三个时期。那时茶道普及到了各个阶层,茶道内部也分出许多流派,形成百花争艳的局面。这样说来,日本在对外来文化的移植中,对其精华的发展也做到了尽善尽美。 日本有一个别称,樱花之国。把富士山作为旅游目的地很久了,那里的雪,那里的樱花,那里不一样的人文,相信很多人都很向往吧。日本历来有樱花节,樱花盛开的季节,到处都能够看到一边赏花一边举行宴会的情景。在日本,樱花被视为吉祥之物。在传统的婚礼等喜庆场合,经常要饮用一种在盐浸的樱花瓣里加入开水的樱花汤,便是取樱花的吉利之义。樱花盛开的四月,也正是入学、就职的时节,是人生的重大转折点,因此樱花又代表了充满光明与希望的未来形象。除此之外,在日本到处都是用樱花命名的街道、车站、市镇、商标、饭菜、茶点、汤饮。文学家写咏樱诗,画家绘樱花图,音乐家谱赞樱曲,银行印出樱花图

职称制度的起源和内涵

现代职称制度的起源和内涵。 “职称”最初源于“职务名称。国际上理论的”职称“内涵通常的定义是;”区别专业技术或学术水平的等级称号”,所以,它是授予专业技术人员水平、能力及成就的等级的“衔”或“称号”。是反应专业技术人员学术、技术水平、工作能力及工作成就的标志。理论上的“职称”具有如下特征:1.评定与岗位、职责无关,不与工资待遇挂钩;2.没有数额限制;3.一旦使用终身享用;4.相同的职称,评定的标准相同;5.与人员使用无关。与职称“概念”相比,“学衔”是小概念,适用于高等学校教师和科研人员。除此之外,“学衔”与理论上的“职称”在内涵上几乎是相同的。 我国职称工作已有60余年的历史,目前,全国设立了29个职称系列,颁布了相应的职务试行条例。1994年以来,全国又逐步建立起各类专业技术人员职业资格证书制度33个,约有60多万人取得各类资格。建国初期至1960年,国家采取专业技术职务任命制,这时的“职称”是指“职务名称”。1960年至1985年,我国实行职称评定制度,根据评定结果确定工资,没有职责要求。1977年9月恢复技术职称,这里的技术职称含义仍是“职务”名称。但由于经济方面的原因,工资未能兑现。此时的职称评定工作在客观上是带有评定学衔、技术称号的性质。中央于1983年9月1日冻结了全国职称评定的工作。1985年“学衔”制在高校做过试点,最终没有实行。此次,国家文件明确了“专业技术职务”的叫法,但是,许多省份仍叫“职称”。在实施过程中,评和聘有分开的情况,但多少情况没有分开。从1990年开始,陆续组织了许多系列的专业技术职务资格考试,各单位在通过考试取得专业技术职务资格且符合一定年限等其他要求的人员中进行了聘任,游戏专业技术职务聘任制开始生根。

少年中国说(全班背诵)

《少年中国说》节选 日本人之称我中国也,一则曰老大帝国,再则曰老大帝国。呜呼!我中国其果老大矣乎? 梁启超曰:恶!是何言!是何言!吾心目中有一少年中国在! 《少年中国说》——梁启超。 天地苍苍,乾坤茫茫,中华少年,顶天立地当自强。 少年中国者, 则中国少年之责任也。 故今日之责任,不在他人,而全在我少年。 少年智则国智,少年富则国富; 少年强则国强,少年独立则国独立; 少年自由则国自由,少年进步则国进步; 少年胜于欧洲则国胜于欧洲,少年雄于地球则国雄于地球。 红日初升,其道大光。河出伏流,一泻汪洋 潜龙腾渊,鳞爪(zhǎo)飞扬。乳虎啸谷,百兽震惶。 鹰隼(yīnɡ sǔn )试翼,风尘吸张。奇花初胎,矞矞(yù yù)皇皇。 干将(gān jiāng)发硎(fā xíng),有作其芒。天戴其苍,地履其黄。 纵有千古,横有八荒。前途似海,来日方长。 美哉我少年中国,与天不老!壮哉我中国少年,与国无疆!

翻译:日本人称呼我们中国,一张口就叫老大帝国,再张口还 是叫老大帝国。唉!我们中国难道果真是老了吗?我梁启超说:不!这是什么话,这是什么话!在我的心目中只有一个少年中国存在。 所以今天的责任,不在于他人,全在我们年轻人的肩上,年轻 人聪明智慧,国家就聪明智慧;年轻人富有,国家就富有;年轻人 强盛,国家就强盛;年轻人独立,国家就独立;年轻人自由,国家 就自由;年轻人进步,国家就进步;年轻人胜过欧洲人,国家就胜 过欧洲;年轻人在世界上称雄,国家就在世界上称雄。旭日东升, 前程光明;黄河从地下流出,一泻千里,势不可挡;潜藏的巨龙在 深渊腾跃而起,各种水中生物纷纷散逃;幼虎在山谷吼叫,各种野 兽无不震惊惶恐;雄鹰展翅试飞,掀起狂风,飞沙走石;珍奇的鲜 花含苞待放,万木逢春,生机勃勃;宝剑在磨刀石上磨出,发着耀 眼的光芒。我们青年头顶着青天,脚踏着黄土大地,从纵的时间上 看有着千年万载的历史,从横的空间看可通达四面八方,前途就象 大海一样宽广,未来的岁月正长。美好啊,我们年轻的中国,跟青 天一样不会衰老!壮丽啊,我们年轻的中国,同国土一样万寿无疆!

日本人眼中的冰心

日本关西大学汉学家萩野脩二: 日本人眼中的冰心 正在进行的“全国冰心文学系列讲座”中,有一位主讲人是来自日本关西大学的汉学家――萩野脩二。正是萩野先生的学生在研究中发现了冰心写于日本的《纯白的婚礼》这一批佚文。今年,这批佚文的“回国”曾轰动一时。 萩野先生曾经研究过赵树理,翻译过巴金的作品。他从上世纪80年代开始接触冰心,研究冰心,已经成为冰心文学在日本的权威研究者。11日,他在福建省图书馆内,向冰心的家乡人展示了冰心在日本的生活轨迹,以及日本人眼中的冰心,冰心对日本社会的影响。 向战后日本介绍中国 冰心是先行者 萩野脩二谈到,冰心曾9次逗留和旅居日本。第4次是1945年。其时冰心丈夫吴文藻担任中国驻日军事代表团的政治组长和盟国委员会中国代表顾问。冰心携9岁的吴青作为眷属,在日本渡过长达5年的岁月。 在此期间,冰心作了数次演讲,因为日本的年轻人想了解新中国的文学到底是怎样的。为了回答日本年轻人关注的这一问题,冰心尽最大的努力向他们传达了新中国文学的“崭新”之处。她曾在东京大学受仓石武四郎教授的邀请作了5次演讲。这些演讲经翻译,于1949年9月在日本出版发行。同时由于仓石先生的力荐,冰心成为日本东京大学文学系最初的女性讲师。 日版《寄小读者》至今仍出名 在萩野脩二先生的研究中,他认为最初把冰心介绍到日本的是周作人。但是真正译介冰心的作品并产生影响,是从饭冢朗翻译的《繁星》开始。这本书1939年由伊藤书店出版。 萩野脩二先生考证冰心多次赴日,并与许多日本作家有过交流,比如井上靖、有吉佐和子、水上勉、濑户内寂听(晴美)等日本一流作家。 在饭冢先生之后,花费大量心血向日本人介绍冰心的是仓石武四朗。他强调并称赞冰心语言为“优雅”。仓石先生为《寄小读者》的内容所感动,于是将它翻译成了日文。这本书成为了日本非常有名的译著,至今仍出名。战后不久,冰心在日本成为一位很受欢迎的作家,许多日本学生都以冰心为研究对象,完成自己的毕业论文。 冰心不仅仅是儿童文学作家 在面对日本青年而创作的《怎样欣赏中国文学》中,冰心提出:“男女之爱,最重要的是恋爱结婚,没有恋爱的结婚是不道德的。男女之地位是平等的,贞操的问题也是平等的,所以表彰贞妇烈女的文章也是片面的。中国妇女运动有过标语…打倒贤妻良母?。我们并不是不要贤妻良母,可是同时也要贤夫良父。贤和良不应该只是一方面的义务。” 萩野脩二先生认为,这样的观点不仅在当时非常激进,而且对于日本人“也是一种崭新的见解”。 不过《陶奇的暑期日记》出版后,冰心也被局限为儿童文学作家,导致了日本人把冰心看作是一位不从有关生活立场和人生立场等当时的社会问题出发而提问的作家,持一种“虽然她的文采很好,但其作品内容仅读一遍便足已”的态度。 萩野脩二先生最后说到,就是他自己,对冰心的看法也经历过一个重新认识和改变陈见的过程。上世纪80年代后,他开始了解她对社会的积极反应,“她的思想近似于梁启超。文学作品中所体现的宽广的人性和深刻性才是它的生命力。”他打了一个诗意的比喻:“她那富有深意的作品以及对人类的一种侧面进行的仔细洞察,就像…小桔灯?一样赋予我们以温暖心房的光芒。”

湖南人是韩国人和日本人祖先之一

湖南人是韩国人和日本人祖先之一 湖南人是韩国人和日本人的祖先之一,秦朝时期在岳麓山修炼的韩终是朝鲜半岛的先祖。”3月13日,在一场有关湖南“文化大繁荣”和“湖南精神”的文化沙龙上,湖南省法律顾问、湖南大学法学院院长杜钢建教授发出上述论断。 他指出,湖南人是韩国人和日本人的祖先之一,秦朝时期在岳麓山修炼的韩终是朝鲜半岛的先祖,《史记·秦始皇本纪》载:“因使韩终、侯公、石生求仙人不死之药。”韩终原为齐国方士,炼丹采药,名满天下,而其修炼的地点是楚国境内的长沙。唐代司马承祯《洞天福地记》记载︰“第二十三洞真墟──在潭州长沙县,西岳真人韩终所治之处。”在秦灭楚后8年,韩终带着罗氏、卢氏等楚国亡民有准备地逃离了秦国,渡海到了朝鲜半岛东南,建立了三韩。而韩国的汉字传入时间大约在战国到汉初,这和韩终之属到韩国的时间吻合。 汉代建立后,吴氏长沙国王和刘氏长沙国王的家族和后代又大规模移民日本,对日本国的形成和日本文化发展产生了重要影响。后来,湖南法文化影响了日本圣德太子的《宪法十七条》。 针对是谁发现了美洲新大陆的国际问题,杜钢建教授根据史料记载,认为在哥伦布之前是常居湖南讲学的僧人出海最早发现美洲。湖南人开放进取,历代敢为人先,凭借寥廓荒忽的湘江气派、与道翱翔的追求乘流而逝,具有开拓创新的历史传统基础。因而,他认为湖湘文化历来是一种开放性的“国际文化”。 此外,他重点介绍了儒释道合流的道林寺文化,希望政府和社会加强地方文化瑰宝的珍惜、整理和保存,又要加强对湖湘文化理论的学习、研究和探索,从中挖掘湖湘文化中之法治要义,在社会各界的通力合作下,开启“湖湘新儒学”之学派。这是继海外新儒学、大陆新儒学之后,首次有学者在湖南本土提出“湖湘新儒学”,续接了宋明理学以来的“道南正脉”。 在此次沙龙上,《印象》杂志主编、印象网总编枕戈也赞同杜钢建教授在湖南本土提出“湖湘新儒家”的意义,并顺势提出了自己对“新湖湘学派”的一种设想,认为当代湖湘文化要解决两大问题:一是重新解释历史,随着永州道县玉蟾岩、常德澧县城头山、怀化洪江高庙等湖南三大考古的发现和受人重视,我们应当质疑建立在黄河流域基础上的华夏五千年历史,而探究发生在长江流域尤其是湖湘大地的五千年前的中华历史;二,新的湖湘文化在面对现代西方文明的挑战时,要解决湖湘文化与现代宪政文明的融合,也即当下众多学者提出的“儒家宪政”的问题,同时要解决湖湘文化与市场经济的融合,也即媒体提出的湖南人会打仗、会从政但不会经商的问题。

历史的外延和内涵

准确把握历史概念的内涵和外延 来源:233网校论文中心[ 2011-08-22 09:55:00 ]阅读:1作者:王长见编辑:studa090420 内容摘要:历史不仅是一门学科,更是一门科学,有其严谨性和科学性,一些高中学生学习历史有困难,主要还是对一些历史概念弄不明白,要么对时间概念把握不准,要么没有准确把握历史概念的内涵和外延。本文试图对如何帮助高中学生准确把握历史概念及其内涵和外延进行论述。 关键词:历史概念内涵外延 历史不仅是一门学科,更是一门科学,有其严谨性和科学性。一些高中学生学习历史有困难,主要还是对一些历史概念弄不明白,把握不准,存在以下问题: 1.学生对时间概念把握不准。历史概念,首先且最重要的就是时间概念,时间概念有大概念和小概念,大概念指大的、宏观的历史背景,小概念指某一具体的历史时间。任何一个历史事件无法脱离时间而单独存在,所有的历史都交汇在时间长河里,然而,提起历史时间概念,一些学生张冠李戴,移花接木,尽显混淆颠倒之能事,从而使历史失去了原有的真实性。 2.学生没有准确把握历史概念的内涵和外延。历史概念的内涵和外延决定了历史概念的深度和广度,是判断该历史概念与其它概念有无交叉及交叉深浅的重要标准。例如新课标高中历史人教版必修一第1课《夏、商、西周的政治制度》中就提到了中国古代早期三个重要政治制度概念:世袭制、分封制和宗法制,世袭制的内涵是指权力在本家族中世世代代沿袭传承;分封制的内涵是周天子把王畿以外的土地和人民分别封给王族、功臣和古代帝王的后代;宗法制的内涵是嫡长子继承制。从外延看,这三者之间相互关联,权力如何在家族中世袭,这就需要宗法制保障;分封如何有序进行,也需要宗法制来实现,但许多学生辨别不清。这就有必要对如何准确把握历史概念及其内涵和外延进行论述。 一、历史概念的涵义及特征 历史概念是人们对历史事实的概括和总结,它包含着特定的含义。历史概念的种类有人物、事件、文献、典籍、法律、制度、著作、会议、党派、思想、学说等。总体而言,历史概念主要有以下特征。 1.明确的时空定位。历史概念所界定的时间、空间、人物、事件等都是确定的。在人们现在认识能力达到的历史长河里都有一个固定的坐标。虽然逝者如斯,但“故垒仍在”,研究历史概念的确定性为的就是给历史更准确定位。如“改革开放”,虽然开始于1978年,今天人们仍然可以体会到生于1978年的快乐,30年后,人们更能理解新时期最鲜明的特点是改革开放,新时期的标志就是改革开放。1978年因改革开放而获得了坐标意义。 2.历时性和共时性。历时性是指历史概念所界定的历史事件经历了产生、发展(或转变)、结束(完成或消亡)的纵向发展过程。共时性是指历史概念所界定的历史事件与同一时期的政治、经济、文化、空间等的横向联系。如资本主义世界市场,根据纵向发展,历时性经历了新航路开辟开始形成,19世纪中期初步形成,20世纪初期最终形成三个时期。一直到今天,这个市场还在发展呈现出经济全球化趋势。根据横向联系我们在探讨资本主义世界市场初步形成时,就要注意19世纪中期的共时性问题,如工业革命、政治变革(改革与革命)、殖民扩张、交通运输的进步等。 3.结构性。所谓历史概念的结构关系就是指概念自身随时间变化而演变的时序性结构以及概念与其它概念相关联而形成的逻辑性结构。如垄断组织,随时间演进经历了私人垄断→国家垄断→国际垄断的时序性结构。垄断组织又可以和第二次工业革命这个概念形成

人教版五上语文上册类文阅读-13 少年中国说(节选)

类文阅读-13 少年中国说(节选) 少年中国说(节选) 梁启超 日本人之称我中国也,一则曰老大帝国,再则曰老大帝国。是语也,盖袭译欧西人之言也。呜呼!我中国其果老大矣乎?梁启超曰:恶!是何言!是何言!吾心目中有一少年中国在! 欲言国之老少,请先言人之老少。老年人常思既往,少年人常思将来。惟思既往也,故生留恋心;惟思将来也,故生希望心。惟留恋也,故保守;惟希望也,故进取。惟保守也,故永旧;惟进取也,故日新。惟思既往也,事事皆其所已经者,故惟知照例;惟思将来也,事事皆其所未经者,故常敢破格。老年人常多忧虑,少年人常好行乐。惟多忧也,故灰心;惟行乐也,故盛气。惟灰心也,故怯懦;惟盛气也,故豪壮。惟怯懦也,故苟且;惟豪壮也,故冒险。惟苟且也,故能灭世界;惟冒险也,故能造世界。老年人常厌事,少年人常喜事。惟厌事也,故常觉一切事无可为者;惟好事也,故常觉一切事无不可为者。老年人如夕照,少年人如朝阳;老年人如瘠牛,少年人如乳虎。此老年与少年性格不同之大略也。任公曰:人固有之,国亦宜然。 (选自《民国文化名家经典书馆梁启超经典》当代世界出版社) 1.下列词语解释有错误的是()。 A.盖:原来是。 B.既往:往事。 C.破格:破纪录。 D.乳虎:初生的虎。 2.翻译下列句子。 (1)老年人常多忧虑,少年人常好行乐。 (2)惟盛气也,故豪壮。惟怯懦也,故苟且; 3.说一说文章画线的句子的言外之意。 4.用自己的话说一说,少年人和老年人的性格有什么不同之处?

【参考答案】 1.C 2.(1)老年人常常多忧多虑,年轻人常常喜欢游戏娱乐。 (2)正因为精神旺盛,所以豪迈雄壮;正因为胆怯懦弱,所以得过且过。 3.日本人认为中国已经老了。 4.老年人经常怀念往事,思想保守,年青人常常思索未来,敢于冒险,勇于进取,打破常规 龙的传人 遥远的东方有一条江,它的名字就叫长江。 遥远的东方有一条河,它的名字就叫黄河。 虽不曾看见长江美,梦里常神游长江水。 虽不曾听过黄河壮,澎湃汹涌在梦里。 古老的东方有一条龙,它的名字就叫中国。 古老的东方有一群人,他们全都是龙的传人。 巨龙脚底下我成长,长成以后是龙的传人。 黑眼睛黑头发黄皮肤,永永远远是龙的传人。 百年前宁静的一个夜,巨变前夕的深夜里。 枪炮声敲碎了宁静夜,四面楚歌是姑息的剑。 多少年炮声仍隆隆,多少年又是多少年。 巨龙巨龙你擦亮眼,永永远远地擦亮眼。 (选自《爱国主义教育歌词集》远方出版社) 1.解释词语。 前夕: 汹涌澎湃: 2.“巨龙”指的是。“龙的传人”指的是。中国人的外貌特点是 3.唱这首歌时,语气应该是() A.平淡 B.豪迈 C.欣喜 D.悲伤

人类的起源与发展史

人类的起源与发展史 人类起源与发展 从生物学的意义上讲,人是一种动物,人属于哺乳动物纲,灵长目,人科,人属。类人猿与人在进化上有亲缘关系,因此可以说它是人的祖先。大约在20万~300万年以前,人类就已经出现在地球上了。人类是从古猿变来的。但是类人猿和人,在进化 史上都很年轻,如果以地球现在的年龄为12小时,那么人的寿命还不到半分钟。 科学的人类起源理论是从18世纪的拉马克开始的,并经过达尔文开始形成。在古代和18世纪以前,关于人类起源的问题只能做一些猜测。古代生物学家虽然指出了人类与动物在结构上的相似现象,但还不能提出什么系统的理论来阐述人类起源的奥秘。 18世纪著名瑞典生物学家林耐,在他创立的生物分类学的基础上,特别是在研究 动物分类时,把人和猿做了比较。他不仅发现了人和猿都有二心耳、二心室,都是胎生,而且发现人、猿、猴都有两对门齿,胸前都有一对乳房。由于这种惊人的相似, 所以他在进行动物分类时,就把人、猿、猴归入一类,名曰灵长类,即都是灵敏的高 等哺乳动物。 法国博物学家拉马克提出了由猿变人的理论,这是拉马克在研究了现代猿的身体 构造和生活习性的基础上第一次提出来的。他假设,由于生活条件改变,下到地面生 活的类人猿必须用后肢行走,促使手足分工,使前肢发展得更加灵巧有力。这种在发 展变化中的猿人渐渐进化成新的物种,最后变成了原始人。由猿变人论,比起林耐的 人与猿同类论,大大地前进了一步,揭示了猿和人之间前后相继的发展联系。 法国生物学家居维叶首先从比较解剖学方面证明,所有脊椎动物。从最低等的鱼 类到最高等的人类,其主要特征都基本相同。从而说明人起源于猿。他通过解剖学证明,从两栖动物到人的四肢骨骼原来都是由一定数目的骨片在同一格式上构成的,并 指出“两条腿的鸟和人本来都是四肢动物”。由此,居维叶进而证明猿是人的直接祖先,并初步阐述了人类起源的机制。 赫胥黎从达尔文的启示中得到启发,他用达尔文的进化论作为说明从猿到人的武器。他研究了前人发现的人类头骨化石,找到了古猿到人类的桥梁。他曾指出了鱼类、两栖类、爬虫类、鸟类、哺乳类和人类早期胚胎的相似性是它们共同祖先的证明。这 就从胚胎学上揭示了人类与猿类的亲缘关系。他的结论是:人类“是和猿类由同一祖先 分支而来”。人与猿同祖理论首次被赫胥黎提出来了,这比拉马克的猿变人论又前进了

我眼中的日本上班族真实生活

我眼中的日本上班族真实生活 屈指一算,在日本留学工作加起来也有四年多了,借着年末总结兼吐槽一下,工科生文笔渣,请多海涵。 先说一下现状吧,现在日本一家制造业公司做工程师,公司是世界500强,在中国做得不错,市场占有率第一吧。日本的大企业很像国企,工作稳定,因为有法律保护,除非你屡次违纪,无法无天,或者公司财政状态恶化的无以为继,日本公司基本不能裁一名正规职员。日本最近又立法,60岁的职员要是还有工作的意愿,公司有义务让他工作到65岁,我估计企业界又该哀鸣了。工作的氛围也应该比较相像吧,领导老人有权威,新人没啥决定权,就是一个传令的。不过我是研发,而且基本是学生时代一脉相承的研究领域,总算还有不少活做,还挺忙的。 工作第二年,折成人民币,现在每月工资两三万吧,夏季冬季各发一次奖金,奖金随上年业绩而定,基本上每次在三个月的工资左右浮动。加班费大概是普通时薪的两倍,要想赚钱只能靠加班费了。其他还有一些补贴,结了婚的有妻子补贴,带孩子的有孩子补贴,不住公司宿舍的有房补,交通费倒是全报,像我这样每天往返要走150km的还是挺爽的。当然这以外就都是花费了,所得税,健康保险,养老保险,公司入股,工会费,扣得嗷嗷狠。特别是养老保险,每次看到都心疼不已,我这是在挣钱帮日本人养老阿。

公司是双休,节假日出勤的话各项补贴会很高,公司一般不肯让人周末出勤。年假有20天,包括一个5天连续的放松休假,我们所前几年年假休得少,今年工会查得很紧,不但正门入口处挂了个大牌子,上面写着,休假是为了更好的工作。每个领导桌上还插了个小旗子,上面血红的大字,保证每人每年休满12天,我每次看到都很汗。 日本大企业是没有实习期的,一加入就可以发全额工资,这点挺不错。当然,涨工资也是很慢地,如果没有升迁的话,基本上就是一年张1万日元工资,二十岁出头就可以预测到自己三十岁乃自四十岁的工资,这真是一件无趣并且让人泄气的事情。并且三十五岁之前的升迁也是很难的,像国内二十出头就部门经理副总之类,日本大公司可是看不到的。这意味着,进入了公司后,你要努力十年才能升官发财,在此之前,你的工资待遇也许和混日子的同事没有太大差别。作为一个习惯了短平快观念的中国人,我真心觉得十年以上的回报期限太长了。但是,我周围的年轻日本同事还是孜孜不倦地努力工作,对此,我只能解释为国民性了。 再说一下日本公司的新人研修制度,很早就听说过日本公司的研修制度很丰富。自己体验了过后,先不说效果,诚意至少是有的。像我们公司,新人进去基本有一年的研修期,一年时间发全额工资,不用工作加班,下班了就能走,等于公司养人一年,还是很有魄力的。不过我们部门因为人手实在紧张,我大概研修了半年就被要过去了。那个时候看我同期进公司的人,每天从早到晚就是坐在电脑前悠哉悠哉,还是挺羡慕的。 研修从四月就开始了,先是在本部的大讲堂听了几天的讲座。我们公司本部只做管理,研发都分散在各处的研究所中,基本上技术人员混不出头,以后就没啥机会的回来了。讲座各式各样,有老总讲话,由公司规章,中间还夹了一次toeic考试,竟然还搞了中国文化讲座。听日本人讲中国还是蛮有趣的,印象比较深的有三点。一是他说有一个日本百货公司在中国开店,要求每个员工都保持微笑迎客,但却发现卖得反而不好。结果他们分析是因为中国人喜欢讲价,如果售货员一直都保持微笑的话,他们会有被售货员占了便宜的感觉。反之售货员如果如丧考妣的脸色的话,他们会有压价成功的成就感。这个我觉得还算有点道理吧,不过笑脸迎客应该是世界共通的。第二个他说中日的发展,就比如有一堆黄豆,你要把他从桌子这一头搬到另一头。日本事先计划好要用多大的盒子,要搬几次,怎么才能不洒出来,然后才开始做;而中国则是不多想,拿起豆子就往桌子那边丢,中间掉了不要紧,只要大部分到了就可以。就结果看,日本方式求得了精度,却失了先机,而中国方式虽然粗糙,却可能得了市场。从他话语里,倒觉得他比较推崇中国方式,也是对日本多年经济停滞不前的反思吧。 然后是在公司各处的工厂和研究所参观,得有半个月吧,那段时间蛮爽的,拿着公司的钱在日本的东南地北旅游,看看各处风情。接下来回到公司专门的研修中心,开始进行两个月的专门的讲座。主要有两方面,一是商务礼仪和办事方法的讲座。比如说怎样鞠躬啊,怎么样交换名片之类的。还有工作中应该的注意点,和上司打招呼上司不理怎么办,和同事合作不融洽怎么办,被性骚扰了怎么办,各种时候的处理方法。记得比较清楚的一句话,叫"下一环节是客人"。就是说把东西移交给下一个人的时候,要为他多着想,让他更方便处理,好像他是客人一样。比如你要要求上司审核报告,那么就要把相关资料也都准备好,不要临时去拿。你要拜托别人帮你搬东西,就要把搬多少东西,去哪都详细清晰地写好,不要让人误解。 继续说研修,还有一个月左右的研修是外语研修。一般都是英语的,但比较特别的是我那一年,有个领导突发奇想改成了中文研修。他说反正英语大家早就学过了,以后是中国的时代,大家不如好好学习中文吧。老实说,一个月的时间基本学不了什么东西。不过中文研修毕业的时候,搞了个中文歌唱比赛,大家分成小组合唱周华健的花心来一决胜负。那天能把花心唱的顺溜的日本人还真不少,倒是让我颇为讶异。

第一节 日 本

第一节日本 第七章我们邻近的国家和地区 第一节日本 06东亚和日本 前面我们学习了亚洲,了解了亚洲地域辽阔,人口众多,根据不同的方位,我们把亚洲分成了东亚、东南亚、南亚、西亚、中亚和北亚六大区。我们今天从东亚讲起。 东亚包括中国、韩国、日本、朝鲜、蒙古五国,这五国就是包括我们中国在内,其余四国都是我们的近邻。五国的首都分别是中国首都北京、韩国首都首尔、日本首都东京、朝鲜首 都平壤和蒙古首都乌兰巴托。 一、日本的自然环境: 今天我们着重要讲日本。日本是东亚的岛国,我们通过地图来看看它所处的自然环境。 首先,日本是位于西太平洋边,地处南北海上交通要道上的一个气候宜人的群岛国家。就其海陆位置来看,位置优越,交通便利。就其纬度位置来看,日本南部,即本州岛南部、四国岛和九州岛到硫球群岛与我国东部沿海地区相当,也是亚热带季风气候,其本州岛中部到北部,以及北海道岛与我国华北地区大致相当,是温带季风气候。虽说都是与我国大陆一样的季风气候,但日本是岛国,深受海洋的影响,海洋性特征明显。而我国背靠亚欧大陆,大陆性特征更明显。说得更简明一点就是,日本受海洋影响,降水总是要多一些,季节变化更均匀一点,比如冬季降水明显多于我国。日本的夏季没有我国那么炎热,冬季又没有我国那么寒冷,即受海洋影响,气温的年较差更小。气候宜人是日本自然环境的有利方面。注意掌握日本的四大岛:北海道、本州、四国、九州。这四大岛占了日本国土的96%。北海道东北部的北方四岛现被俄罗斯占领,北方四岛是俄日关系的主要障碍。 其次,日本是个多山的群岛国家。日本地处亚欧板块和太平洋板块的碰撞地带,如果这里没有这两个板块在这里碰撞,那这里应该是茫茫的大海。碰撞了,水面下的海底就隆起抬升,出水成岛,成了东亚岛弧的一部分。也正是因为如此,日本成了一个多山的国家,高原山地占国土的四分之三,也因此成了坐在板块交界地带的火山地震国。日本常年火山、地震频繁,所以日本常进行防震演习。抗震救灾成了日本人心中一件十分重要的事情,尤其是建筑行业,抗震设计是其必不可少的一门必修课。如果哪一家房地产公司报着侥幸的心理,不进行抗震设计,那么在地震中肯定受损严重,那这个房地产公司就该倒闭了。你想呀,谁还敢找你修 房子。 经历了四川“5·12”大地震,地震也变得见惯不惊了。 多山对于一个国家来说,肯定是一个非常不利的条件,但怎样充分利用这个不利条件,把不利条件转化为有利条件,将不利因素的影响降低到最低限度,这就需要人的智慧了。这一点,日本人做得很好。日本利用多山的地形,大力植树造林,使国土三分之二被森林覆盖,是世界森林高覆盖很高的国家。多火山现实也让日本大力发展以火山为资源的旅游开发。富士山

惟德乃兴的由来及其文化内涵

惟德乃兴的由来及其文化内涵 “山川之宝,惟德乃兴”是德兴人耳熟能详的一句话,都知道德兴由此得名。要知道“惟德乃兴”及德兴地名的由来,还要从历史上两个人物说起。一个是邓远,另一个是李昪。 邓远扬德。德兴(那时还不叫德兴)古属扬州,春秋战国时为吴、越、楚地,东汉建安八年(公元203年)在皖、浙、赣三省边塞“建邑银城”设立了乐安县,古县城址设在银城堡。南朝陈天嘉年间(公元560-565年)改乐安县为银城县。唐上元二年(公元675年)朝廷在银山设置银场,叫邓公场,并任命邓远为主事,负责开采银矿,从此大规模的采银冶银开始了。《元和郡县志》记载,邓公场当年“出银十余万,收税银七千两”,产银量占全国的59%,为盛唐主要银产地之一。 为什么朝廷会在银山以邓远的名字设立采冶银场?并任命邓远为主事呢?隋朝炀帝大业年间(公元605-616年),鄱阳郡都尉张蒙发现了银山银矿。张蒙是怎样发现银山银矿的,史书上没有记载,但有一个美丽的传说“白鹿遗踪”向我们讲述了银山银矿发现过程。张蒙非常喜欢打猎,有一天来到德兴,晚上看书,由于白天骑马太累,不知不觉靠在书桌上睡着了,朦朦胧胧之中,眼前突然一只白亮晶莹的白鹿闪过,张蒙立即起身上马,朝白鹿追去。白鹿忽隐忽现,似

乎在挑逗张蒙。张蒙大吼一声,张弓搭箭,朝白鹿奋力射去。白鹿负伤而逃,只见一路上血迹斑斑。张蒙顺着血迹追去,追到一个山洞前,哪里还有白鹿的影子?张蒙一急便惊醒过来,这时天已大亮,发现原来是自己做了一个梦。吃完早饭,张蒙觉得这个梦比较蹊跷,便带领随从沿着梦中走过的方向寻找,果然来到了一个山洞前。进洞一看,只见洞内银笋连绵耸立,银光闪闪。从那以后,许多德兴人扛着铁锤,拿起钢钎,支起钢锅,在银山采银炼银了。 那时的银山地处偏远山区,交通不便,官府也没有派人管理。从张蒙发现银矿到朝廷设立邓公场,期间有60多年的时间,整个银山银矿开采一直处于无序状态,乱采乱挖,山林破坏严重,为争矿打架斗殴,废水横流等等。这时有一个人看不下去了,他就是邓远。邓远是当地普通老百姓一个,但他怀有一腔报国之情,怀着一颗干事业的雄心,通过对群众无序开采银矿的现象进行调查研究,写成一篇好的调研文章,送到了当时的鄱阳饶州府知州窦俨手中。窦俨对邓远的报国之忠义非常感动,同时对邓远文章中提出的治理方案也非常赞赏,于是马上写成奏章上报朝廷。从唐总章二年(公元669年)邓远第一次上书到唐上元二年(公元675年)朝廷最终下令设邓公场采炼银,邓远毫不气馁,6年内多次上书陈述设官场治银的好处和具体实施方案。朝廷最终被其感动,下旨在银山设邓公场,并由邓远负责,专事采冶管银,

山东高唐四年级必背古诗

高唐县第一实验小学2015年暑假阅读书目 四年级 必背古诗: 181《绝句》志南182《望天门山》李白183《枫桥夜泊》张继184《题西林壁》苏轼185《别董大》高适186《寻隐者不遇》贾岛187《渔歌子》张志和188《小儿垂钓》胡令能189《赋得古原草送别》白居易190《水调歌头》明月几时有苏轼191《忆江南》白居易192《江南春》杜牧193《南园十三首》(其一)李贺194《如梦令》李清照195《观猎》王维196《早春》韩愈197 相见欢(无言独上西楼);198.咏兰花/(明) 张羽199虞美人(春花秋月何时了)200.丑奴儿(少年不知愁滋味)201村居(高鼎)202登高(杜甫)203把酒问月204赠孟浩然205短歌行206书愤207闻官军收河南河北208登金陵凤凰台209秋日别薛升华210酬乐天扬州初逢席上见赠 《增广贤文》前半部分背诵《少年中国说》(日本人之称我中国也。。。。。。。与国无疆) 必读书目: 《假如给我三天光明》海伦.凯勒 《吃狼奶的羊》作者:沈石溪; 《绿光芒》作者:梅子涵; 《黑魂灵》作者:曹文轩; 《女儿的故事》梅子涵 《蓝鲸的眼睛》赵冰波 《稻草人》叶圣陶童话 《吹小号的天鹅》[美国]埃尔温?布鲁克斯?怀特

《匆匆》《背影》《绿》朱自清 选读书目: 1. 儿童哲学智慧书(第一辑) 2. 我的第一本科学漫画书 3. 时代广场的蟋蟀 4. 最美的科普·四季时钟系列 5. 《柳林风声》、 6. 《苹果树上的外婆》 五年级 必背古诗: 241《泊船瓜洲》王安石242《惠崇<春江晚景>》苏轼243《送杜少府之任蜀川》王勃244《过零丁洋》文天祥245《己亥杂诗》龚自珍246《秋思》马志远247《破阵子》晏殊248《题李凝幽居》贾岛249《望月怀远》张九龄250《夏日绝句》李清照251《卜算子咏梅》陆游252《丑奴儿》辛弃疾253《示儿》陆游254《南园(其五:男儿何不带吴钩)》李贺255《游西山村》陆游256《无题》李商隐257满江红258江城子259醉花阴260如梦令261 锦 瑟262谒山263 峨眉山月歌264 赠汪伦265渡荆门送别266 山中问答267 山中与幽人对酌268 白雪歌送武判官归京269 旅夜书 怀270 月夜忆舍弟 背《论语》(前半部分) 诗歌、散文经典: 《雨后》《纸船寄母亲》《寄小读者》(冰心)《草房子》曹文轩

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